引き寄せられる様に金色堂に入った。仄暗い堂の中は香が流れている。硝子の向こうの金色堂は意外と小さい。しかしその見事さには息をのむ。建築当時は金ぴかだったかも知れないものが、八百年の歳月を経て落ち着いた色合いになり、全体に施された螺鈿は繊細で趣味が良い。須弥壇の仏像も、蒔絵と螺鈿が施された天蓋も長押も金、天蓋からは水晶の玉を連ねた網が下がっている。これだけ金を使いながら金づくめの厭らしさなど皆無の、優雅でうつくしい金色のお堂だった。
正面の須弥壇の下には清衡公が、向かって左は基衡公、右には秀衡公が眠り、 京から誰かが奪い返して平泉に帰ってきた泰衡公の首級も一緒に納められている。ここは八百年を経た奥州藤原四代の墓所。長い歳月のさらに向うには清衡公の父である経清公と母方の安倍一族がいる。昔来たときはその意味を考える知識も彼らを憶う感覚も無かったが、今人気のない鞘堂のなかで手を合わせ、ガラスを隔てて彼らと改めて向き合うと、八百年の永さだけでなく短さすら感じる。彼らは今でもここに居て訪れる人を待ち、言葉無くして語りかけている。
金色堂の後は讃衡蔵へ。ここは宝物館で棺の中から出て来た副葬品が展示されている。棺の中から出て来た太刀、清衡公が身につけていた念珠や泰衡公の首級がもともと納められていた首桶などがある。首桶は黒漆塗りで結構大きく、形は昔の飯櫃みたいだ。太刀の刀身は殆ど錆びてぼろぼろになってはいるが、まだ形を留めているものもある。水晶の念珠がある。派手な性格だったと伝えられる基衡公のは素晴らしい細工が施されており、秀衡公は僧らしく簡素な水晶、泰衡公の首桶に入っていた念珠は公の頭の上に置かれていたそうだ。合掌。
参道を降りて行く途中にある展望台から束稲山、北上川、衣川と 衣川の古戦場が見渡せる。中尊寺はかつての『衣川の柵』より川をへだてて南に築かれた。清衡公は「この地であった幾多の戦いで喪われた霊を供養するために」関山一つまるごと寺にすることで、安倍氏の時代からの「衣川の南」の悲願を達成してしまった事になる。
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金色堂(の鞘堂)です。
内部の金色堂本体は撮影禁止だから外だけ。 経蔵。いやもう、風情たっぷりの佇まいでした。
秋の夕暮れ、時折紅葉がはらはらと散りかかる・・・。 夕日をあびる衣川古戦場。束稲山、
北上川、かすかに衣川も見えます。 |